* 文中に残虐な画像がありますので、見るに耐えないと感じる方はお読みになるのをお止めください。
* 『矢面に立つ』という行為をテーマに、前回は批判的な側面を強調し、今回は評価すべき側面を強調して書きました。( このシリーズはこれで完了です。)
1. 立場
2018年10月25日、内戦下のシリアで武装勢力に拘束され、3年4カ月ぶりに解放されたフリージャーナリストの安田純平さん(44)が成田空港に降り立った。
この一連の事件についてインターネットでさまざまな意見が発信されている。
『拘束されたのは自己責任』との批判に対し、海外を舞台に活躍する著名人らが反論する投稿も目に付く。
そこで今知り得る情報の中で、明言できることは何かを考えてみた。
その前に
1994年、ハゲワシが餓死寸前の少女を狙っている『ハゲワシと少女』という写真でピューリッツァー賞を受賞したケビン・カーター氏のことをご存知だろうか。
彼の撮った写真はスーダンの飢餓を訴えたものだったが、1993年3月26日付のニューヨーク・タイムズに掲載されると、同紙に絶賛と共に多くの批判が寄せられた。そのほとんどは「なぜ少女を助けなかったのか」というものであり、やがてタイム誌などを中心に「報道か人命か」というメディアの姿勢を問う論争に発展した。
この論争は、授賞式から約1ヶ月後に起こったカーター氏の自殺をもって沈静化する。
ここで言いたいのは、安穏としたリビングにいながら、生死がせめぎ合うような危険地帯・限界地域に突入し、地球のどこかで起こっている看過できない状況を伝えてくれるジャーナリストを、批判する権利が私達にあるかどうか、ということだ。
更に言えば、彼らの行動力を検証し得る立場に立つには、私達の安穏とした日常にどのようなものを付加すれば良いのか、ということだ。
2. 矢面に立つ
この話はスケールを世界から身の回りへと縮めてみると分かり易い。
例えば、
クラスで誰かがいじめにあっている。僕(私)がいじめられている生徒の味方になれば、彼(彼女)は救われる。しかし今度は僕(私)がいじめのターゲットになる確率が濃厚だ。
例えば、
住宅が密集して建つ抜け道のない(行き止まり)のエリア。そこでは入り口の2軒が所有する私道が関所となってしまっている。それを良いことに入り口の2軒は言いたい放題、やりたい放題だ。限度を越えた行動が続く。
舞台はいじめが常習化した教室であり、不当な権力を持つ者が存在する近所付き合いである。どちらも日常生活に出現した緊張地帯だ。
誰が我が身を投げ打っていじめられっ子を庇うのだ、誰が実印拒絶も顧みず2軒と戦っていくのだ。先陣を切って矢面に、君は、あなたは、立つか。後続者はいない可能性大だ。それどころか、君、あなたに全てを任せて難を逃れようとするだろう。それでも矢面に立つか。どうだ。
矢面に立つことは厳しい。心身ともに疲弊する。皆が避ける役回りであるから孤独に陥り易い。
それでも君があなたが矢面に立てる人間ならば、実際に立った経験があるならば、緊張地帯を取材するジャーナリスト達を検証する立場に立てると私は思う。
3. 安田純平氏
そこで安田純平氏だが、私(← 常に矢が2、3本刺さっています(笑))は功罪相半ばする結果を残したと考える。
功績は、緊張地帯に赴くジャーナリストにスポットライトを当てたということ。彼らの存在自体を意識させ、各著名人そして各国の捉え方を日の本に曝け出させたということ。これは私達が緊張地帯に赴く彼らをどう捉えて行ったらいいかを考える大きな契機となった。
一方で、安易に比べてはいけないが、日常生活でも緊張場面はあり、矢面に立つ人間がいることも忘れないで欲しい。しかも彼らは危険や不利益を被るとともに、自己責任も全面的に負う。
安田純平氏の発言や振る舞いからは、緊張地帯に赴く人間には自己責任は皆無であるかのような印象を受ける。それは同時に、ジャーナリストの甘えという誤解を生みかねない。